108 / 365

1年間に読んだ本/見た映画・演劇の合計が108になるといいなあ、という日記。

森達也『FAKE』

 

2014年、本邦における最大の話題・関心事といえば、佐村河内問題であった。今にして思えば、牧歌的な時代であった。と懐古すると同時に、真実/虚偽の対立構造を際立たせたという点で、2017年現在の社会を先取りしていた、と言えるかもしれない。

 

2003年に、佐村河内作曲の交響曲「HIROSHIMA」が完成。
2008年初演。
2010年、全曲初演。
2011年には音源化された。その間、音を失った作曲家、「現代のベートーベン」として各メディアに取り上げられ、音源化された「HIROSHIMA」は、クラシック音楽としては異例のセールスをあげた。

一方で、佐村河内の音楽家としての才能や経歴に疑義を示すものもあり、2014年には、聴覚障害詐病説やゴーストライター疑惑についての記事が週刊誌に掲載。これをうけてゴーストライター新垣隆が公式に謝罪。佐村河内も謝罪および説明を余儀なくされた。

そして、この会見以降、「感動した!」の声は急速に弱まり、新垣隆のタレント化および佐村河内バッシングが始まることとなる。

さて、ドキュメンタリスト森達也は、以上のような経緯について、映画のなかではまったく触れていない。この映画をみる人のなかには、連日テレビや週刊誌を通じて流布された「悲劇のゴーストライター新垣隆」と「稀代の詐欺師・佐村河内」の姿がすでに刻まれていることが前提となっている。

その佐村河内の日常に、森達也のカメラは迫る。

そこには、どこまでも優しい妻と、猫、そして、豆乳とケーキを愛する平凡な男がいるだけだった。

 

佐村河内の日常に寄り添うカメラから見た、報道の加熱ぶりは、読んで字のごとく、猖獗を極めているようにしか見えない。

映画の中盤で、フジテレビのディレクターおよびプロデューサーが、佐村河内問題についての真相を究明する番組を作りたい、絶対にふざけるような演出にはしませんから、と、佐村河内の家まで直接訪ねてくる場面がある。佐村河内は彼らにケーキとコーヒーをすすめつつ、切々と語る。

「自分の難聴は詐病ではない。感音性難聴という、いわばグレーゾーンの病である。医師の診断書も存在している。
作曲については、全体のコンセプト作りおよび構成の細かな指示をだしていたのであって、新垣隆との関係はゴーストというよりむしろプロデューサーとディレクターに近い。これについても、新垣側とのやりとりが資料として残っている。これらについて、真剣に取り上げてくれるなら、番組に出ても構わない」。

しかし、佐村河内はその番組への出演は、最終的に見送ることとなった。

その番組のオンエアを見る佐村河内。テレビのなかには、道化として振る舞い、お笑い芸人に「イジられ」る新垣隆の姿があった。(しかも、テレビ出演に慣れていない新垣隆の話し声が小さく、「その声じゃあ誰だって聞こえないよ!」と叫ぶおぎやはぎの矢作。そして、一同の大笑。)

他の番組では、新垣隆に曲を演奏させ、その振り付けとして、耳に手をあてさせて耳が遠いふりをさせるものさえあった。

その番組をじっと見つめる佐村河内。森達也も酷なことをするものである。と同時に、佐村河内の神経のタフさも垣間見える。


佐村河内は、森達也に問いかける。「メディアとは、なぜかくも、誠意がないのか」。

森達也は答える。「メディアに誠意を求めるのが間違い。彼らは、目の前にある材料を、いかに面白くイジり、提示するかにしか興味がない。真実を明らかにしようとか、せめて調査しようとか、そういう志は、そもそも無いんですよ。」

ここに、ある種の逆転関係が現れる。虚偽を糾弾されていた佐村河内は、実は刺激を求めているだけだったメディアの「被害者」であり、本当に真実を葬り去っているのはメディアおよび新垣側なのではないか、と。

森達也は、佐村河内側の支援者の姿を写す。難聴問題について障害者の支援を続けている団体の代表で、自身も難聴者である氏と、佐村河内の弁護団である。
この二人の支援者は、「佐村河内問題」のそもそもの発端であった「難聴詐病疑惑」と「ゴースト問題」のそれぞれの面について、佐村河内側の意見を補強する。

まず、難聴詐病疑惑について、難聴者支援の専門家は、「まず、他人の感覚は絶対に共有できないこと」という前提を理解しなければならないことを説く。すこし考えればわかることであるが、「音感」というもとが主観的な感覚である以上、私に聞こえている音と、あなたに聞こえている音と、それがまったく一致している保証は、だれにもできない。脳波測定などの検査方法はあるが、これは音という外部刺激に対する反応をみるだけであり、「音」がどのように聞こえているかについて検査するすべは、ありえない。これまでもありえなかったし、これからもありえないであろう。主観を客観によって測定することは不可能だからである。

これは視覚や味覚など、五感についてはすべて同じことが言えるのであり、仮に、同じ感覚を共有していると考えられるのは、人間の想像力の賜物と、社会的な合意があるからにすぎないのである。

次に弁護団は「法的問題はすべてクリアされている」という。新垣側の会見があった段階で、佐村河内の単独著作権から佐村河内・新垣の共作ということに著作権が変更され、それは佐村河内側の弁護団と新垣側の弁護団の合意によるものであったということが明らかにされる。著作権の配分等については未確定の部分があり、その部分についての早期の確定、および合意に基づく「ゴーストライター」等の称号の使用中止を求める示談を新垣側に提示しているが、まったく議論の俎上に上がってきてくれない現状を弁護団は訴える。

難聴詐病疑惑およびゴーストライター疑惑について、最初に週刊誌で言上げしたライターは、まさにこの「佐村河内問題」によって、年間ジャーナリズム大賞を受賞する。この賞のプレゼンターは、奇遇にも森達也が勤めていた。直接接触する格好のチャンスとする森達也。しかし、このジャーナリストは、その会場には現れなかった。後日正式に取材を申し込むも、多忙を理由に拒否された。

森は、地方のショッピングモールでサイン会をしている新垣隆本人にも会いにいく。

新垣本人は「佐村河内の取材をしている森さんとは、ぜひ一度ゆっくりお話ししてみたかったんですよ」と語る。しかしながら、後日何度取材を申し込んでも、返信すらない。

 

観客はここへきて、完全に、佐村河内側に加担することになる。

百歩譲って、佐村河内は作曲をしていないのかもしれない。しかし、すぐれたプロデューサーではありえた。それが、非常にすぐれた現代音楽家でありコンポーザーの新垣隆を得たことによって、素晴らしい曲が完成した。共作の事実を隠していたことは非難されるべきだが、それによって難聴を詐病とされたり、バッシングを受け続けていることなどは明らかに過剰である。新垣側も、メディアに乗ったふざけが過ぎており、名誉毀損のレベルに達している。と。

 

森達也は、佐村河内にこう迫る。

「佐村河内さんが、皆のまえで、作曲してみせないから、余計な疑惑が深まったんじゃ無いですか? いまここで、作曲して、演奏して見せれば、少なくとも、その音楽的な資質を疑う人はいなくなるはずです」

その挑発に乗り、佐村河内は作曲と演奏をしてみせることになる。
じっと見つめる妻を、カメラは映し出す。

その曲は、やや冗長かつやや陳腐にも見えたが、しかし、曲の体裁は整っている。いや、名曲であるといってもいいかもしれない。

作曲と演奏をし終えた佐村河内は、晴れ晴れとした表情をしていた。

映画のラスト、森達也は佐村河内にこう問いかける。

「佐村河内さんへの密着も、今日が最終日です。今日、この日に及んで、わたしに「嘘」をついていることは、まだなにかありませんか?正直におっしゃってください」

佐村河内は押し黙る。長い沈黙。

そして、映画は唐突に終わる。

真実はむしろ佐村河内側の主張のなかにある、と完全に肩入れしていた観客は、ここへきて肩透かしをくうことになる。

「もしかして、この期におよんで、まだ隠していることがあるのか?」

森達也の映画が映し出したものは、真実は佐村河内の側にある、ということではなく、メディアには、もともと、真相究明の機能は存在せず、真実/虚偽の問いかけ自体が無効であることだった。グレースケールのなかに生きるわれわれは、では、何を信じ、判断の礎にすべきなのだろうか。それは、自分自身に切に問いかけ続けるしかない。厳しいことであるが、それが現時点での森達也の解である。