108 / 365

1年間に読んだ本/見た映画・演劇の合計が108になるといいなあ、という日記。

三池崇史十三人の刺客

稲垣吾郎演じる暴君、松平斉韶の悪虐の限りが凄まじい。「SMAPのゴローちゃん」が演じる役としては、あるいは、どういう役者が演じる役としても、ここまで振り切った暴君ぶりというのは珍しいかもしれない。とにかく悪い。考えうる限りの暴力を愉しむ斉韶だが、後半に到って、実はこの人も、この時代の「タナトス」の一つの象徴なのではないかと思わされる。すなわち、斉韶への諫言は「諫死」という形をとるしかなく、また、嫡男および嫡男の嫁を陵辱された牧野靱負も死に場所を探しつづけ、ついに果たすことになる。個人の死に対する価値観が、現代とは大きく異なるのである。

 

とはいえ、そのような小難しい背景説明など一切省略し、ただただアクションの連続で見せていく「三池節」はさすが。ゴア描写も、個人的には楽しめた。

 

松方弘樹の晩年の代表作と言えなくもない。殺陣の気迫はさすがである。が、「七人の侍」のごとく、先達として、傍輩の若侍に稽古をつけるようなシーンがもう少しあれば嬉しかった。(役所広司が最後に使う手段は、松方弘樹が授けたものであるとか。)天下泰平の世、実戦経験がどの侍もほとんど無いなか、唯一戦闘経験がある侍としての松方弘樹の造形が完璧にできていれば、それは、撮影所システムが崩れ、伝統的な殺陣の型を持たない現代の役者と、撮影所俳優のサラブレッドである松方弘樹との対比が、もっと綺麗なかたちで出たはずだ。

 

伊勢谷友介演じる山の人の造形も、面白いと言えば面白いが、やや時代錯誤の荒唐無稽さが目に付いた。しかしながら、このような「無駄な過剰さ」が三池崇史の作家性なのだから仕方が無い。今回はそれが、雑味にならないギリギリの線に抑えられていたような気もする。

 

「メリケンに行きたい」という新六郎と、「侍だけが人間なのかよ!」と言い山に帰る木賀小弥太が生き残るというのも面白い。二人は、新しい時代の象徴である。四民平等への目配せもあり、山の人を登場させた演出はよかったと思う。しかし、小弥太が不死身すぎて、リアリティラインが崩れているのはちょっと疑問。

 

アクションを見せる映画だということはわかっているのだが、また、蛇足になってしまう危険もあることはわかっているのだが、焼け落ちた落合宿がその後どうなったのか、また、土井大炊頭が経略した誅殺とはいえ、どのように穏便に事後処理したのか、満身創痍の新六郎が、どうやって木曽山中から江戸まで(それも斉韶を討った刺客であるとバレずに、)明石藩が張り巡らせたであろう追走を逃れたのか、気になって仕方がなかった。