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1年間に読んだ本/見た映画・演劇の合計が108になるといいなあ、という日記。

和田誠快盗ルビイ

 

大瀧詠一作曲のテーマ曲に惹かれて観た一本。

 

朝食を食べる冴えない男の背景、窓の外を大きなハンフリー・ボガードのポスターが持ち上がっていく。

 

食料品店の下見にしぶしぶ行くシーンでは、わざとカメラを手持ちにして、微妙な揺れを画面に生じさせて主人公の不安を表現したり、意図的にコマを抜いて自転車の運転の不安定さを見せたり。撮影技術による心理の演出が素晴らしい。こういう細かい部分に映画の精神が宿っているのだとわかる映画である。オープニングからエンディングまで、古典の引用に満ちているように見える(そういうバイアスがもちろんこの監督にはあるわけだが)一方で、それが映画論的・演出論的にどのような意味を持つのか、ぼくにはよくわからないのが悔しい。

 

そのような点を抜きにしても素晴らしいのは、俳優である。主人公の真田広之は、かんぜんに母子家庭のヘタレ息子にしか見えない。時折ダンスシーンやツボを落としそうになるシーンで抜群の運動神経は見せるのだが、それとはあまり気づかない。何より小泉今日子である。ファッション、表情、台詞、しぐさ、すべてが100点満点としか思えない。この映画世界においては、その存在自体が100点満点になるようにすべてが作られているという意味合いにおいて、この映画は真性のアイドル映画である。そもそも映画とは記録であり、ニュースであり、ドキュメンタリーなのだから、アイドル映画こそ映画ではないかとさえ思うのである。

 

ほとんどのシーンにおいて小泉今日子は下着をつけていないように見える。これも演出のひとつなのだろうか。時代の流行だった?あるいは、ハリウッド式なのか?

ラストシーン、真田広之の噛んでいたガムが小泉今日子に移ってしまうシーン、中学生の時に見ていたら卒倒していたかもしれない。この映画に通底するのは、濃密なエロスだ。

 

一方、この映画の最大の欠点と思えてならないのが、「盗みの動機」の不在である。彼女はなぜ、いかにして快盗としての活動をしているのか。これではただの愉快犯であって、怪盗(快盗)ものにつきものの義賊的な動機がほとんどない。これでは、ただの犯罪者が自らのコケットリイを武器に近隣住民を籠絡しているだけになってしまう。もちろん、そう見えないところに俳優の力があり、演出の力があるわけだが、この点はいささか片手落ちではないかと思った。原作にあたってみようかな。