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1年間に読んだ本/見た映画・演劇の合計が108になるといいなあ、という日記。

『サイゴン・クチュール』

クリスマスの夜、因業実業家のスクルージは、三人の精霊に出会って「過去」「現在」「未来」の実相を目の当たりにし、改心して健全な生き方を取り戻すーー使い古された物語の定型かもしれないが、主人公の成長譚としてはやはり効果的であると思った。『サイゴン・クチュール』は、現代ベトナム版の「クリスマスキャロル」である。

 

序盤の主人公ニュイの「イヤな奴」「わがまま娘」ぶりはやや過剰な描写がつるべ打ちのように繰り出され、次第に飽きてくる。のみならず、彼女に内在する成長のタネのようなものもなかなか提示されないのが辛い。結局、彼女が成功したのは名家の娘に生まれたから、ということになってしまう。そうではなく、ここ一番での負けん気の強さ、現状を打開しようともがくことのできる力、周囲のものがなぜか力を貸してしまう人間的な魅力など、人物造形の伏線が前半部にも欲しかった。

 

とはいえ、後半の成長ぶりには引き込まれた(小島瑠璃子河北麻友子にしかみえなくなってくる!)。

 

「未来の精霊」が、自らもまた、過去の亡霊と対峙することによって、アルコール依存症から脱却して成長の一歩を踏み出す姿が、「クリスマスキャロル」式の物語に新しいアイディアを加えたと思う。

やや紋切型ののオカマキャラは出てくるものの、ストーリーが恋愛要素に引っ張られることもなく、シンプルにファッション「スポ根」的にまとまっているのも非常に現代的で心地のいい部分のように思った。

 

前回みた『COLUMBUS』では、韓国系の青年が、親の看取りに際して振る舞わなければならない、アジア的な所作について嘆き、また、アメリカで育った自分と故郷との常識のギャップに喘いでいた(そして、その本質をアメリカ人少女理解ができない、という部分も苦々しい)。

 

一方で、ベトナム製作のこの映画では、そのような宗教観については、ほとんど問題視されない。「伝統に反発する娘」でさえ、何か問題がおきればそこで祖霊と対話し、突然のタイムスリップの際に母親の居室の次に確認をしにいくのも仏間だったりする。また、「長子こそが正統後継者」という価値観については、登場人物のうち誰一人として疑義をさしはさまないのである。政治家など見ても、東アジアには世襲が多い。これが現実というものなのだろう。

 

2017年にタイムスリップしてみれば、街行くひとびとは、ほとんどアオザイなど着ていない。

 

1969年では、洋装が先進性の象徴のようであったのに、いまでは安価な服はほとんどが洋装であり、アオザイは、高級店でのみ取り扱われるものとして、日常の用を失ってしまっている。

 

主人公の跳ね返りがむしろ社会常識となってしまっている以上、今度は反対に、伝統の擁護者にならなければならないというダブルバインドの状況に追い込まれてしまうのだ。しかしながら、自分には当然備わっていると思っていた「正統後継者」という立場は、むしろ、この社会では通用しない。なぜならば、彼女は伝統を軽んじ、学んでこなかったからである。

 

苦境に追い込まれ、初めて彼女は、自らの出自に、文字通り「身をもって」向かい合わなければならなくなる。そこに成長の突破口があるのだが、そこにも「出自」を理由として救いの手が差し伸べられるあたりはやや甘さも感じられた。しかしながら、「未来の精霊」である、零落した自分とバディ関係を結ぶことによって成長していく様は、清々しく、そして、感動も呼んだ。

 

母親役のゴ・タイン・バンの美しさには息を呑むばかりで、物語の進行上のノイズにさえなっていた。

 

エンドロールの後にくる「20代目」のシーンは蛇足だったが、それもまた、本作のチャームポイントなのかもしれない。