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1年間に読んだ本/見た映画・演劇の合計が108になるといいなあ、という日記。

『21世紀の資本』

21世紀の資本

 

当邦においても大きく話題となった経済書21世紀の資本』の映画化。脚本監修のみならず、主要な出演者の一人としても、著者のトマ・ピケティが深く携わった本作は、学術書のドキュメンタリー映像作品として、書籍以上に人口に膾炙するところとなった。

 

著者ピケティの論旨は明快である。

1)実体経済の成長率が、資本収益(土地や金融資産などから得られる利益)の成長率を超えたことは歴史上一度もない

2)従って、資本収益に対する課税を強化しなければ経済格差は拡大し続け、階級闘争や革命の火種を生み出し続ける

 

ということである。

本書の特徴は、この明快な論旨(あらゆる意味で、誰しもが抱いている実感ではないだろうか?)を裏付けるため、産業革命以降のあらゆる統計資料、歴史書、文学作品を引用し、実証している点である。

 

映画版においては、ヴァージニア・ウルフ原作『高慢と偏見』や『レ・ミゼラブル』など、最近の話題作含む古今の映画作品を引用し、論証過程を見せている点が非常にユニークかつ、映画としての楽しさを生み出している。

 

本作の主張が、もし正しいとしてーいくつか疑問は残る。

1)資本収益に対する課税強化は政治的な決定によってなされなければならないが、これにはタックスヘイブン含む国際間協調を大前提とする。それは現実的に可能だろうか。

2)課税に格差を是正する効果はあるのだろうか。

の2点である。

 

現に資本を持っている人間が本作を読んだり観たりしたとして、まず考えるのは、資本収益に対する更なる投資であり、租税回避地への資産の移転であり、政治家に対する課税回避のロビイングであろう。それらの力は、おそらく、常に再分配・公共福祉を訴える力よりも強い。戦争や大恐慌でさえも、本質的には、この傾向を是正できなかった、とはこの作品でとみに強調される部分である。

 

本作で示される単純明快かつ強力な理論ー”r>g”は、革命の揺籃となることによって、資本主義の仕組み自体を蝕み、破壊してしまう。一方で、資本主義に代わるような次善の経済理論はいまだ生まれてきていない。なんとかしてこの枠組みを維持する努力をしなければ、大きな破滅がもたらされかねない、というのは誰の目にも明らかではあるが、しかし、一方で、それに対する打開策を打とうとは、ほとんどの人は思っていない。あるいは、それ以上に、今の「勝ち馬」になんとか乗ろうとすることに必死である。

自分は、むしろ、国際的な課税の強化という「策」を下支えするための、教育や倫理の裾野を広げる必要性を感じている。政治の目的は利害調整ではなく、それによって社会的に具現化される「善のイデア」なのだと信じたい。

なお、三菱UFJ銀行シンクタンクでの講演記事
 https://www.murc.jp/assets/img/pdf/quarterly_201602/pdf_001.pdf

はとても面白かったです。格差拡大の要因として、資本収益の成長率に注目するのではなく、超巨額の報酬を得ている「メガマネージャー」に注目している点。
しかし、メガマネージャーは、主に金融業の経営者に顕著ではないのか?とも思われ、やはり資本収益への規制についての課題は残ると思った。

和田誠快盗ルビイ

 

大瀧詠一作曲のテーマ曲に惹かれて観た一本。

 

朝食を食べる冴えない男の背景、窓の外を大きなハンフリー・ボガードのポスターが持ち上がっていく。

 

食料品店の下見にしぶしぶ行くシーンでは、わざとカメラを手持ちにして、微妙な揺れを画面に生じさせて主人公の不安を表現したり、意図的にコマを抜いて自転車の運転の不安定さを見せたり。撮影技術による心理の演出が素晴らしい。こういう細かい部分に映画の精神が宿っているのだとわかる映画である。オープニングからエンディングまで、古典の引用に満ちているように見える(そういうバイアスがもちろんこの監督にはあるわけだが)一方で、それが映画論的・演出論的にどのような意味を持つのか、ぼくにはよくわからないのが悔しい。

 

そのような点を抜きにしても素晴らしいのは、俳優である。主人公の真田広之は、かんぜんに母子家庭のヘタレ息子にしか見えない。時折ダンスシーンやツボを落としそうになるシーンで抜群の運動神経は見せるのだが、それとはあまり気づかない。何より小泉今日子である。ファッション、表情、台詞、しぐさ、すべてが100点満点としか思えない。この映画世界においては、その存在自体が100点満点になるようにすべてが作られているという意味合いにおいて、この映画は真性のアイドル映画である。そもそも映画とは記録であり、ニュースであり、ドキュメンタリーなのだから、アイドル映画こそ映画ではないかとさえ思うのである。

 

ほとんどのシーンにおいて小泉今日子は下着をつけていないように見える。これも演出のひとつなのだろうか。時代の流行だった?あるいは、ハリウッド式なのか?

ラストシーン、真田広之の噛んでいたガムが小泉今日子に移ってしまうシーン、中学生の時に見ていたら卒倒していたかもしれない。この映画に通底するのは、濃密なエロスだ。

 

一方、この映画の最大の欠点と思えてならないのが、「盗みの動機」の不在である。彼女はなぜ、いかにして快盗としての活動をしているのか。これではただの愉快犯であって、怪盗(快盗)ものにつきものの義賊的な動機がほとんどない。これでは、ただの犯罪者が自らのコケットリイを武器に近隣住民を籠絡しているだけになってしまう。もちろん、そう見えないところに俳優の力があり、演出の力があるわけだが、この点はいささか片手落ちではないかと思った。原作にあたってみようかな。

三池崇史十三人の刺客

稲垣吾郎演じる暴君、松平斉韶の悪虐の限りが凄まじい。「SMAPのゴローちゃん」が演じる役としては、あるいは、どういう役者が演じる役としても、ここまで振り切った暴君ぶりというのは珍しいかもしれない。とにかく悪い。考えうる限りの暴力を愉しむ斉韶だが、後半に到って、実はこの人も、この時代の「タナトス」の一つの象徴なのではないかと思わされる。すなわち、斉韶への諫言は「諫死」という形をとるしかなく、また、嫡男および嫡男の嫁を陵辱された牧野靱負も死に場所を探しつづけ、ついに果たすことになる。個人の死に対する価値観が、現代とは大きく異なるのである。

 

とはいえ、そのような小難しい背景説明など一切省略し、ただただアクションの連続で見せていく「三池節」はさすが。ゴア描写も、個人的には楽しめた。

 

松方弘樹の晩年の代表作と言えなくもない。殺陣の気迫はさすがである。が、「七人の侍」のごとく、先達として、傍輩の若侍に稽古をつけるようなシーンがもう少しあれば嬉しかった。(役所広司が最後に使う手段は、松方弘樹が授けたものであるとか。)天下泰平の世、実戦経験がどの侍もほとんど無いなか、唯一戦闘経験がある侍としての松方弘樹の造形が完璧にできていれば、それは、撮影所システムが崩れ、伝統的な殺陣の型を持たない現代の役者と、撮影所俳優のサラブレッドである松方弘樹との対比が、もっと綺麗なかたちで出たはずだ。

 

伊勢谷友介演じる山の人の造形も、面白いと言えば面白いが、やや時代錯誤の荒唐無稽さが目に付いた。しかしながら、このような「無駄な過剰さ」が三池崇史の作家性なのだから仕方が無い。今回はそれが、雑味にならないギリギリの線に抑えられていたような気もする。

 

「メリケンに行きたい」という新六郎と、「侍だけが人間なのかよ!」と言い山に帰る木賀小弥太が生き残るというのも面白い。二人は、新しい時代の象徴である。四民平等への目配せもあり、山の人を登場させた演出はよかったと思う。しかし、小弥太が不死身すぎて、リアリティラインが崩れているのはちょっと疑問。

 

アクションを見せる映画だということはわかっているのだが、また、蛇足になってしまう危険もあることはわかっているのだが、焼け落ちた落合宿がその後どうなったのか、また、土井大炊頭が経略した誅殺とはいえ、どのように穏便に事後処理したのか、満身創痍の新六郎が、どうやって木曽山中から江戸まで(それも斉韶を討った刺客であるとバレずに、)明石藩が張り巡らせたであろう追走を逃れたのか、気になって仕方がなかった。

森達也『FAKE』

 

2014年、本邦における最大の話題・関心事といえば、佐村河内問題であった。今にして思えば、牧歌的な時代であった。と懐古すると同時に、真実/虚偽の対立構造を際立たせたという点で、2017年現在の社会を先取りしていた、と言えるかもしれない。

 

2003年に、佐村河内作曲の交響曲「HIROSHIMA」が完成。
2008年初演。
2010年、全曲初演。
2011年には音源化された。その間、音を失った作曲家、「現代のベートーベン」として各メディアに取り上げられ、音源化された「HIROSHIMA」は、クラシック音楽としては異例のセールスをあげた。

一方で、佐村河内の音楽家としての才能や経歴に疑義を示すものもあり、2014年には、聴覚障害詐病説やゴーストライター疑惑についての記事が週刊誌に掲載。これをうけてゴーストライター新垣隆が公式に謝罪。佐村河内も謝罪および説明を余儀なくされた。

そして、この会見以降、「感動した!」の声は急速に弱まり、新垣隆のタレント化および佐村河内バッシングが始まることとなる。

さて、ドキュメンタリスト森達也は、以上のような経緯について、映画のなかではまったく触れていない。この映画をみる人のなかには、連日テレビや週刊誌を通じて流布された「悲劇のゴーストライター新垣隆」と「稀代の詐欺師・佐村河内」の姿がすでに刻まれていることが前提となっている。

その佐村河内の日常に、森達也のカメラは迫る。

そこには、どこまでも優しい妻と、猫、そして、豆乳とケーキを愛する平凡な男がいるだけだった。

 

佐村河内の日常に寄り添うカメラから見た、報道の加熱ぶりは、読んで字のごとく、猖獗を極めているようにしか見えない。

映画の中盤で、フジテレビのディレクターおよびプロデューサーが、佐村河内問題についての真相を究明する番組を作りたい、絶対にふざけるような演出にはしませんから、と、佐村河内の家まで直接訪ねてくる場面がある。佐村河内は彼らにケーキとコーヒーをすすめつつ、切々と語る。

「自分の難聴は詐病ではない。感音性難聴という、いわばグレーゾーンの病である。医師の診断書も存在している。
作曲については、全体のコンセプト作りおよび構成の細かな指示をだしていたのであって、新垣隆との関係はゴーストというよりむしろプロデューサーとディレクターに近い。これについても、新垣側とのやりとりが資料として残っている。これらについて、真剣に取り上げてくれるなら、番組に出ても構わない」。

しかし、佐村河内はその番組への出演は、最終的に見送ることとなった。

その番組のオンエアを見る佐村河内。テレビのなかには、道化として振る舞い、お笑い芸人に「イジられ」る新垣隆の姿があった。(しかも、テレビ出演に慣れていない新垣隆の話し声が小さく、「その声じゃあ誰だって聞こえないよ!」と叫ぶおぎやはぎの矢作。そして、一同の大笑。)

他の番組では、新垣隆に曲を演奏させ、その振り付けとして、耳に手をあてさせて耳が遠いふりをさせるものさえあった。

その番組をじっと見つめる佐村河内。森達也も酷なことをするものである。と同時に、佐村河内の神経のタフさも垣間見える。


佐村河内は、森達也に問いかける。「メディアとは、なぜかくも、誠意がないのか」。

森達也は答える。「メディアに誠意を求めるのが間違い。彼らは、目の前にある材料を、いかに面白くイジり、提示するかにしか興味がない。真実を明らかにしようとか、せめて調査しようとか、そういう志は、そもそも無いんですよ。」

ここに、ある種の逆転関係が現れる。虚偽を糾弾されていた佐村河内は、実は刺激を求めているだけだったメディアの「被害者」であり、本当に真実を葬り去っているのはメディアおよび新垣側なのではないか、と。

森達也は、佐村河内側の支援者の姿を写す。難聴問題について障害者の支援を続けている団体の代表で、自身も難聴者である氏と、佐村河内の弁護団である。
この二人の支援者は、「佐村河内問題」のそもそもの発端であった「難聴詐病疑惑」と「ゴースト問題」のそれぞれの面について、佐村河内側の意見を補強する。

まず、難聴詐病疑惑について、難聴者支援の専門家は、「まず、他人の感覚は絶対に共有できないこと」という前提を理解しなければならないことを説く。すこし考えればわかることであるが、「音感」というもとが主観的な感覚である以上、私に聞こえている音と、あなたに聞こえている音と、それがまったく一致している保証は、だれにもできない。脳波測定などの検査方法はあるが、これは音という外部刺激に対する反応をみるだけであり、「音」がどのように聞こえているかについて検査するすべは、ありえない。これまでもありえなかったし、これからもありえないであろう。主観を客観によって測定することは不可能だからである。

これは視覚や味覚など、五感についてはすべて同じことが言えるのであり、仮に、同じ感覚を共有していると考えられるのは、人間の想像力の賜物と、社会的な合意があるからにすぎないのである。

次に弁護団は「法的問題はすべてクリアされている」という。新垣側の会見があった段階で、佐村河内の単独著作権から佐村河内・新垣の共作ということに著作権が変更され、それは佐村河内側の弁護団と新垣側の弁護団の合意によるものであったということが明らかにされる。著作権の配分等については未確定の部分があり、その部分についての早期の確定、および合意に基づく「ゴーストライター」等の称号の使用中止を求める示談を新垣側に提示しているが、まったく議論の俎上に上がってきてくれない現状を弁護団は訴える。

難聴詐病疑惑およびゴーストライター疑惑について、最初に週刊誌で言上げしたライターは、まさにこの「佐村河内問題」によって、年間ジャーナリズム大賞を受賞する。この賞のプレゼンターは、奇遇にも森達也が勤めていた。直接接触する格好のチャンスとする森達也。しかし、このジャーナリストは、その会場には現れなかった。後日正式に取材を申し込むも、多忙を理由に拒否された。

森は、地方のショッピングモールでサイン会をしている新垣隆本人にも会いにいく。

新垣本人は「佐村河内の取材をしている森さんとは、ぜひ一度ゆっくりお話ししてみたかったんですよ」と語る。しかしながら、後日何度取材を申し込んでも、返信すらない。

 

観客はここへきて、完全に、佐村河内側に加担することになる。

百歩譲って、佐村河内は作曲をしていないのかもしれない。しかし、すぐれたプロデューサーではありえた。それが、非常にすぐれた現代音楽家でありコンポーザーの新垣隆を得たことによって、素晴らしい曲が完成した。共作の事実を隠していたことは非難されるべきだが、それによって難聴を詐病とされたり、バッシングを受け続けていることなどは明らかに過剰である。新垣側も、メディアに乗ったふざけが過ぎており、名誉毀損のレベルに達している。と。

 

森達也は、佐村河内にこう迫る。

「佐村河内さんが、皆のまえで、作曲してみせないから、余計な疑惑が深まったんじゃ無いですか? いまここで、作曲して、演奏して見せれば、少なくとも、その音楽的な資質を疑う人はいなくなるはずです」

その挑発に乗り、佐村河内は作曲と演奏をしてみせることになる。
じっと見つめる妻を、カメラは映し出す。

その曲は、やや冗長かつやや陳腐にも見えたが、しかし、曲の体裁は整っている。いや、名曲であるといってもいいかもしれない。

作曲と演奏をし終えた佐村河内は、晴れ晴れとした表情をしていた。

映画のラスト、森達也は佐村河内にこう問いかける。

「佐村河内さんへの密着も、今日が最終日です。今日、この日に及んで、わたしに「嘘」をついていることは、まだなにかありませんか?正直におっしゃってください」

佐村河内は押し黙る。長い沈黙。

そして、映画は唐突に終わる。

真実はむしろ佐村河内側の主張のなかにある、と完全に肩入れしていた観客は、ここへきて肩透かしをくうことになる。

「もしかして、この期におよんで、まだ隠していることがあるのか?」

森達也の映画が映し出したものは、真実は佐村河内の側にある、ということではなく、メディアには、もともと、真相究明の機能は存在せず、真実/虚偽の問いかけ自体が無効であることだった。グレースケールのなかに生きるわれわれは、では、何を信じ、判断の礎にすべきなのだろうか。それは、自分自身に切に問いかけ続けるしかない。厳しいことであるが、それが現時点での森達也の解である。

『キングズマン』

『キックアス』シリーズのマシュー・ヴォーン監督の最新作である。『キックアス1』では爽快であった自警組織だが、『キックアス2』にいたって、それは、アメリカ式の善意の押し付け以上の、はた迷惑な、あまりにはた迷惑にすぎる(それはしばしば世界を混迷に陥れている)独善に、衣をつけて揚げてケチャップをかけたような映画であった。それが、「正統派スパイ映画」すなわち007シリーズのオマージュをやっているのが今作である。

イギリス紳士が、そのイギリス紳士ゆえの小道具を駆使して戦う様は非常に痛快だった。このようなアクションは、おそらくアメリカ人監督ゆえの「かっこいいイギリス」の表現なのだろう。敵として対置されるのは、これまたいかにもなアメリカ人であり、その悪の根源は、極端に枉げられたエコロジー解釈に基づく「独善」である。

この意味で監督は、自警組織という独善が悪の根源になりうることを対象化しようとしているのかもしれないが、主人公の組織であるところの「キングズマン」もまた、政府から独立した自警組織なのである。結局マシュー・ヴォーンは、自警団どうしのぶつかり合いを描くしかないのだろうか。

政府がバックについた諜報機関を「正義」と割り切ることはもはやできず、つまりMI6やIMF「正義の味方」とする既存のシリーズへの批判精神があるのかもしれないし、それ以上に、政治の常道に信頼感がまったくおけないというところが現代的といえば現代的なのではあるが、しかしながら、描かれているのが自警団どうしの戦闘である以上、それは私闘以上でも以下でもなく、そのような戦いを世界規模で繰り広げられるのを見せられるのは、いかにも不快であった。

携帯電話のSIMを使って、世界中のひとびとの洗脳を試みるという悪のアイディアはとても斬新で面白かった。スウェーデンの王女がエロいのも、演出としては、全人類の夢の反映と言っては言い過ぎだろうか。

『ミッションインポッシブル ローグネイション』

 

「ならずもの国家」が何を指しているのかは、映画を見れば明々白々である。

かつてのスパイ映画は「巨悪」を設定し、先進国の諜報員がそれを誅滅するという筋であったが、その構図は、21世紀の現在ではほとんどリアリティを失ってしまったのだろう。

映画としてはアクション・エンターテインメントとして純粋に楽しく、シンドバッドやゾロからジャッキー・チェンへと連なる明朗快活な正統派アクション・スターの座は、トム・クルーズが完全無欠のかたちで受け継いだと言っていいだろう。

 

お色気の少なさ(ヒロインが背中を見せるシーンはあるが)も、過激な描写がいくらでもある現代にあって、却って新鮮とも見える。また、暴力描写のなかに、決して血が映り込まない。あくまでも見せるべきは役者の動きそのものがもたらす快感なのである。ここではリアリズムがリアリティを意味しない。そういった脚本段階での練り込み、バランス感覚は非常に素晴らしいと思った。

 

まことにこれは、たとえていうなら「小学生男子」のための映画なのであり、アクション映画というジャンルにおいては、それが100点満点なのである。

2/2017 キックアス・ジャスティスフォーエバー

『キックアスージャスティスフォーエバー』

 

キックアスは、父親が死ぬ物語だ。

 

前作ではヒットガールの父親が死に、今作ではキックアスの「父」が死ぬ。

「父が死んだあとのアメリカ」はしばしば映画の題材となるが、本作はその変奏のひとつだと言ってもいいだろう。

 

っていうか、アメリカ人ってどんだけ「正義」が好きなの?

 

われわれから見れば、不良同士の乱闘にしか見えないし、「正義」を語る側も徒党を組んで「自衛」という名の暴力行為(しかもそれはあきらかにやりすぎている、)を繰り返すだけの、悪のバリエーションの一つでしかない。「正義」を行使したいという気持ちあでは否定しないけど、それが正義かどうかを決定する権利は、君たちにはないよ。と言いたくなる。

 

父が死に、父に与えられたアイデンティティを生きようとするヒットガールは、しかし、町からいなくなることを余儀なくされる。それは何を示しているのか。

 

以前であれば笑って観て、バイクにまたがって疾走するヒットガールに爽快感を覚えられたかもしれないが、「ポスト真実」、トランプ大統領時代を生きる我々にとっては、本作のラストの疾駆は苦々しいとしか言いようのない感覚を与えるものである。