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1年間に読んだ本/見た映画・演劇の合計が108になるといいなあ、という日記。

三池崇史十三人の刺客

稲垣吾郎演じる暴君、松平斉韶の悪虐の限りが凄まじい。「SMAPのゴローちゃん」が演じる役としては、あるいは、どういう役者が演じる役としても、ここまで振り切った暴君ぶりというのは珍しいかもしれない。とにかく悪い。考えうる限りの暴力を愉しむ斉韶だが、後半に到って、実はこの人も、この時代の「タナトス」の一つの象徴なのではないかと思わされる。すなわち、斉韶への諫言は「諫死」という形をとるしかなく、また、嫡男および嫡男の嫁を陵辱された牧野靱負も死に場所を探しつづけ、ついに果たすことになる。個人の死に対する価値観が、現代とは大きく異なるのである。

 

とはいえ、そのような小難しい背景説明など一切省略し、ただただアクションの連続で見せていく「三池節」はさすが。ゴア描写も、個人的には楽しめた。

 

松方弘樹の晩年の代表作と言えなくもない。殺陣の気迫はさすがである。が、「七人の侍」のごとく、先達として、傍輩の若侍に稽古をつけるようなシーンがもう少しあれば嬉しかった。(役所広司が最後に使う手段は、松方弘樹が授けたものであるとか。)天下泰平の世、実戦経験がどの侍もほとんど無いなか、唯一戦闘経験がある侍としての松方弘樹の造形が完璧にできていれば、それは、撮影所システムが崩れ、伝統的な殺陣の型を持たない現代の役者と、撮影所俳優のサラブレッドである松方弘樹との対比が、もっと綺麗なかたちで出たはずだ。

 

伊勢谷友介演じる山の人の造形も、面白いと言えば面白いが、やや時代錯誤の荒唐無稽さが目に付いた。しかしながら、このような「無駄な過剰さ」が三池崇史の作家性なのだから仕方が無い。今回はそれが、雑味にならないギリギリの線に抑えられていたような気もする。

 

「メリケンに行きたい」という新六郎と、「侍だけが人間なのかよ!」と言い山に帰る木賀小弥太が生き残るというのも面白い。二人は、新しい時代の象徴である。四民平等への目配せもあり、山の人を登場させた演出はよかったと思う。しかし、小弥太が不死身すぎて、リアリティラインが崩れているのはちょっと疑問。

 

アクションを見せる映画だということはわかっているのだが、また、蛇足になってしまう危険もあることはわかっているのだが、焼け落ちた落合宿がその後どうなったのか、また、土井大炊頭が経略した誅殺とはいえ、どのように穏便に事後処理したのか、満身創痍の新六郎が、どうやって木曽山中から江戸まで(それも斉韶を討った刺客であるとバレずに、)明石藩が張り巡らせたであろう追走を逃れたのか、気になって仕方がなかった。

森達也『FAKE』

 

2014年、本邦における最大の話題・関心事といえば、佐村河内問題であった。今にして思えば、牧歌的な時代であった。と懐古すると同時に、真実/虚偽の対立構造を際立たせたという点で、2017年現在の社会を先取りしていた、と言えるかもしれない。

 

2003年に、佐村河内作曲の交響曲「HIROSHIMA」が完成。
2008年初演。
2010年、全曲初演。
2011年には音源化された。その間、音を失った作曲家、「現代のベートーベン」として各メディアに取り上げられ、音源化された「HIROSHIMA」は、クラシック音楽としては異例のセールスをあげた。

一方で、佐村河内の音楽家としての才能や経歴に疑義を示すものもあり、2014年には、聴覚障害詐病説やゴーストライター疑惑についての記事が週刊誌に掲載。これをうけてゴーストライター新垣隆が公式に謝罪。佐村河内も謝罪および説明を余儀なくされた。

そして、この会見以降、「感動した!」の声は急速に弱まり、新垣隆のタレント化および佐村河内バッシングが始まることとなる。

さて、ドキュメンタリスト森達也は、以上のような経緯について、映画のなかではまったく触れていない。この映画をみる人のなかには、連日テレビや週刊誌を通じて流布された「悲劇のゴーストライター新垣隆」と「稀代の詐欺師・佐村河内」の姿がすでに刻まれていることが前提となっている。

その佐村河内の日常に、森達也のカメラは迫る。

そこには、どこまでも優しい妻と、猫、そして、豆乳とケーキを愛する平凡な男がいるだけだった。

 

佐村河内の日常に寄り添うカメラから見た、報道の加熱ぶりは、読んで字のごとく、猖獗を極めているようにしか見えない。

映画の中盤で、フジテレビのディレクターおよびプロデューサーが、佐村河内問題についての真相を究明する番組を作りたい、絶対にふざけるような演出にはしませんから、と、佐村河内の家まで直接訪ねてくる場面がある。佐村河内は彼らにケーキとコーヒーをすすめつつ、切々と語る。

「自分の難聴は詐病ではない。感音性難聴という、いわばグレーゾーンの病である。医師の診断書も存在している。
作曲については、全体のコンセプト作りおよび構成の細かな指示をだしていたのであって、新垣隆との関係はゴーストというよりむしろプロデューサーとディレクターに近い。これについても、新垣側とのやりとりが資料として残っている。これらについて、真剣に取り上げてくれるなら、番組に出ても構わない」。

しかし、佐村河内はその番組への出演は、最終的に見送ることとなった。

その番組のオンエアを見る佐村河内。テレビのなかには、道化として振る舞い、お笑い芸人に「イジられ」る新垣隆の姿があった。(しかも、テレビ出演に慣れていない新垣隆の話し声が小さく、「その声じゃあ誰だって聞こえないよ!」と叫ぶおぎやはぎの矢作。そして、一同の大笑。)

他の番組では、新垣隆に曲を演奏させ、その振り付けとして、耳に手をあてさせて耳が遠いふりをさせるものさえあった。

その番組をじっと見つめる佐村河内。森達也も酷なことをするものである。と同時に、佐村河内の神経のタフさも垣間見える。


佐村河内は、森達也に問いかける。「メディアとは、なぜかくも、誠意がないのか」。

森達也は答える。「メディアに誠意を求めるのが間違い。彼らは、目の前にある材料を、いかに面白くイジり、提示するかにしか興味がない。真実を明らかにしようとか、せめて調査しようとか、そういう志は、そもそも無いんですよ。」

ここに、ある種の逆転関係が現れる。虚偽を糾弾されていた佐村河内は、実は刺激を求めているだけだったメディアの「被害者」であり、本当に真実を葬り去っているのはメディアおよび新垣側なのではないか、と。

森達也は、佐村河内側の支援者の姿を写す。難聴問題について障害者の支援を続けている団体の代表で、自身も難聴者である氏と、佐村河内の弁護団である。
この二人の支援者は、「佐村河内問題」のそもそもの発端であった「難聴詐病疑惑」と「ゴースト問題」のそれぞれの面について、佐村河内側の意見を補強する。

まず、難聴詐病疑惑について、難聴者支援の専門家は、「まず、他人の感覚は絶対に共有できないこと」という前提を理解しなければならないことを説く。すこし考えればわかることであるが、「音感」というもとが主観的な感覚である以上、私に聞こえている音と、あなたに聞こえている音と、それがまったく一致している保証は、だれにもできない。脳波測定などの検査方法はあるが、これは音という外部刺激に対する反応をみるだけであり、「音」がどのように聞こえているかについて検査するすべは、ありえない。これまでもありえなかったし、これからもありえないであろう。主観を客観によって測定することは不可能だからである。

これは視覚や味覚など、五感についてはすべて同じことが言えるのであり、仮に、同じ感覚を共有していると考えられるのは、人間の想像力の賜物と、社会的な合意があるからにすぎないのである。

次に弁護団は「法的問題はすべてクリアされている」という。新垣側の会見があった段階で、佐村河内の単独著作権から佐村河内・新垣の共作ということに著作権が変更され、それは佐村河内側の弁護団と新垣側の弁護団の合意によるものであったということが明らかにされる。著作権の配分等については未確定の部分があり、その部分についての早期の確定、および合意に基づく「ゴーストライター」等の称号の使用中止を求める示談を新垣側に提示しているが、まったく議論の俎上に上がってきてくれない現状を弁護団は訴える。

難聴詐病疑惑およびゴーストライター疑惑について、最初に週刊誌で言上げしたライターは、まさにこの「佐村河内問題」によって、年間ジャーナリズム大賞を受賞する。この賞のプレゼンターは、奇遇にも森達也が勤めていた。直接接触する格好のチャンスとする森達也。しかし、このジャーナリストは、その会場には現れなかった。後日正式に取材を申し込むも、多忙を理由に拒否された。

森は、地方のショッピングモールでサイン会をしている新垣隆本人にも会いにいく。

新垣本人は「佐村河内の取材をしている森さんとは、ぜひ一度ゆっくりお話ししてみたかったんですよ」と語る。しかしながら、後日何度取材を申し込んでも、返信すらない。

 

観客はここへきて、完全に、佐村河内側に加担することになる。

百歩譲って、佐村河内は作曲をしていないのかもしれない。しかし、すぐれたプロデューサーではありえた。それが、非常にすぐれた現代音楽家でありコンポーザーの新垣隆を得たことによって、素晴らしい曲が完成した。共作の事実を隠していたことは非難されるべきだが、それによって難聴を詐病とされたり、バッシングを受け続けていることなどは明らかに過剰である。新垣側も、メディアに乗ったふざけが過ぎており、名誉毀損のレベルに達している。と。

 

森達也は、佐村河内にこう迫る。

「佐村河内さんが、皆のまえで、作曲してみせないから、余計な疑惑が深まったんじゃ無いですか? いまここで、作曲して、演奏して見せれば、少なくとも、その音楽的な資質を疑う人はいなくなるはずです」

その挑発に乗り、佐村河内は作曲と演奏をしてみせることになる。
じっと見つめる妻を、カメラは映し出す。

その曲は、やや冗長かつやや陳腐にも見えたが、しかし、曲の体裁は整っている。いや、名曲であるといってもいいかもしれない。

作曲と演奏をし終えた佐村河内は、晴れ晴れとした表情をしていた。

映画のラスト、森達也は佐村河内にこう問いかける。

「佐村河内さんへの密着も、今日が最終日です。今日、この日に及んで、わたしに「嘘」をついていることは、まだなにかありませんか?正直におっしゃってください」

佐村河内は押し黙る。長い沈黙。

そして、映画は唐突に終わる。

真実はむしろ佐村河内側の主張のなかにある、と完全に肩入れしていた観客は、ここへきて肩透かしをくうことになる。

「もしかして、この期におよんで、まだ隠していることがあるのか?」

森達也の映画が映し出したものは、真実は佐村河内の側にある、ということではなく、メディアには、もともと、真相究明の機能は存在せず、真実/虚偽の問いかけ自体が無効であることだった。グレースケールのなかに生きるわれわれは、では、何を信じ、判断の礎にすべきなのだろうか。それは、自分自身に切に問いかけ続けるしかない。厳しいことであるが、それが現時点での森達也の解である。

『キングズマン』

『キックアス』シリーズのマシュー・ヴォーン監督の最新作である。『キックアス1』では爽快であった自警組織だが、『キックアス2』にいたって、それは、アメリカ式の善意の押し付け以上の、はた迷惑な、あまりにはた迷惑にすぎる(それはしばしば世界を混迷に陥れている)独善に、衣をつけて揚げてケチャップをかけたような映画であった。それが、「正統派スパイ映画」すなわち007シリーズのオマージュをやっているのが今作である。

イギリス紳士が、そのイギリス紳士ゆえの小道具を駆使して戦う様は非常に痛快だった。このようなアクションは、おそらくアメリカ人監督ゆえの「かっこいいイギリス」の表現なのだろう。敵として対置されるのは、これまたいかにもなアメリカ人であり、その悪の根源は、極端に枉げられたエコロジー解釈に基づく「独善」である。

この意味で監督は、自警組織という独善が悪の根源になりうることを対象化しようとしているのかもしれないが、主人公の組織であるところの「キングズマン」もまた、政府から独立した自警組織なのである。結局マシュー・ヴォーンは、自警団どうしのぶつかり合いを描くしかないのだろうか。

政府がバックについた諜報機関を「正義」と割り切ることはもはやできず、つまりMI6やIMF「正義の味方」とする既存のシリーズへの批判精神があるのかもしれないし、それ以上に、政治の常道に信頼感がまったくおけないというところが現代的といえば現代的なのではあるが、しかしながら、描かれているのが自警団どうしの戦闘である以上、それは私闘以上でも以下でもなく、そのような戦いを世界規模で繰り広げられるのを見せられるのは、いかにも不快であった。

携帯電話のSIMを使って、世界中のひとびとの洗脳を試みるという悪のアイディアはとても斬新で面白かった。スウェーデンの王女がエロいのも、演出としては、全人類の夢の反映と言っては言い過ぎだろうか。

『ミッションインポッシブル ローグネイション』

 

「ならずもの国家」が何を指しているのかは、映画を見れば明々白々である。

かつてのスパイ映画は「巨悪」を設定し、先進国の諜報員がそれを誅滅するという筋であったが、その構図は、21世紀の現在ではほとんどリアリティを失ってしまったのだろう。

映画としてはアクション・エンターテインメントとして純粋に楽しく、シンドバッドやゾロからジャッキー・チェンへと連なる明朗快活な正統派アクション・スターの座は、トム・クルーズが完全無欠のかたちで受け継いだと言っていいだろう。

 

お色気の少なさ(ヒロインが背中を見せるシーンはあるが)も、過激な描写がいくらでもある現代にあって、却って新鮮とも見える。また、暴力描写のなかに、決して血が映り込まない。あくまでも見せるべきは役者の動きそのものがもたらす快感なのである。ここではリアリズムがリアリティを意味しない。そういった脚本段階での練り込み、バランス感覚は非常に素晴らしいと思った。

 

まことにこれは、たとえていうなら「小学生男子」のための映画なのであり、アクション映画というジャンルにおいては、それが100点満点なのである。

2/2017 キックアス・ジャスティスフォーエバー

『キックアスージャスティスフォーエバー』

 

キックアスは、父親が死ぬ物語だ。

 

前作ではヒットガールの父親が死に、今作ではキックアスの「父」が死ぬ。

「父が死んだあとのアメリカ」はしばしば映画の題材となるが、本作はその変奏のひとつだと言ってもいいだろう。

 

っていうか、アメリカ人ってどんだけ「正義」が好きなの?

 

われわれから見れば、不良同士の乱闘にしか見えないし、「正義」を語る側も徒党を組んで「自衛」という名の暴力行為(しかもそれはあきらかにやりすぎている、)を繰り返すだけの、悪のバリエーションの一つでしかない。「正義」を行使したいという気持ちあでは否定しないけど、それが正義かどうかを決定する権利は、君たちにはないよ。と言いたくなる。

 

父が死に、父に与えられたアイデンティティを生きようとするヒットガールは、しかし、町からいなくなることを余儀なくされる。それは何を示しているのか。

 

以前であれば笑って観て、バイクにまたがって疾走するヒットガールに爽快感を覚えられたかもしれないが、「ポスト真実」、トランプ大統領時代を生きる我々にとっては、本作のラストの疾駆は苦々しいとしか言いようのない感覚を与えるものである。

1/2017『リップヴァンウィンクルの花嫁』

黒木華の歌が、COCCOの踊りが、良かった。

もっともっと黒木華の歌がききたい。

90年代から00年代にかけて、岩井俊二の映画が放っていたきらめきは、当時中高生だった自分にとっては特別だった。『リリイシュシュのすべて』を見るために、外出禁止だった寮をぬけだして渋谷のシネマライズに奔った。映画を撮ってみたいと思い、シナリオを書いてコンテを切った。ハンディカメラで、知り合いや友達同士撮り合った。


淡い色調なのに鮮明な画面。被写界深度の変化による演出。ピアノ。少女。


映画の形をとって、ある記憶を記録すること。


ぼくが見てきた岩井俊二の映画は、そのようなものだった。そして、そのような岩井俊二は、この『リップヴァンウィンクルの花嫁』で完全に復活したと思う、まずはそのことを喜びたい。


一方で、映画そのものは難解である。伏線を読み解こうとすればするほど、裏読みをしようとすればするほど裏切られる。

ラストの人物の死から、ストーリーを遡行すると、無限に遡行できてしまうのがこの映画の怖さだ。どの時点から「死」にまつわる依頼に主人公が巻き込まれていたのかが、まったくわからない。
あっけなく、あまりにあっけなくストーリーが進みすぎ、のっぺりした時間感覚が否応なく不穏さを掻き立ててくる。


異界への扉はいつもスマートフォンである。

スマートフォンの向こう側に異界があり、異界の住人である狂言回しの安室は、スマートフォンによって召喚される。不思議の国のアリスはうさぎの穴に落ち込んだが、現代のウサギ穴はスマホである。

まさに物語の、物語による、物語のための物語だ。

 

ポルノ女優の描き方にやや不満はあった。

 

黒木華のデコルテが赤味を帯びてふっくらしているのが良かった。ああいう風に映されるひとを、映画は殺さない。


映画『リップヴァンウィンクルの花嫁』公式サイト

2、『グランド・ブダペスト・ホテル』

ウェス・アンダーソン監督最新作。見た目の可愛らしさは従来の作品を踏襲していますが、なかみはこれまでとはちょっと違います。本作までは家族のはなしばっかり撮ってきた監督が、初めて「国家と個人」というような大きなテーマについて語りはじめた。これは彼のフィルモグラフィ上の転換点となるのかもしれません。

 

グランド・ブダペスト・ホテルは、中央(もしくは東)ヨーロッパの小国に建つ、古式ゆかしいホテル。現在では「おひとりさま」専用の保養所のような、さびれたホテルになっています。ここで作家は、この国一番の富豪であり、現在のグランド・ブダペスト・ホテルのオーナーである老人ムスタファと出会います。作家は問います「なぜこのホテルを買収しようと思ったのですか?」。老人は答えて曰く、「いいや、買ってないよ」。購入していないホテルが、なぜ老人の所有になっているのか?この問いを導入に、老人の回想が始まります。

 

ラスト、実はこの老人は、このグランド・ブダペスト・ホテルのロビーボーイであり、伝説のコンシェルジュ・グスタフと数々の冒険を乗り越えてきた仲であることが明かされます。なぜ彼が買っていないホテルが彼の所有になったのか。冒険の末、少年時代のゼロ・ムスタファはグスタフと義兄弟のような間柄となり、グスタフが、ホテルの顧客であった大富豪から相続されたホテルをさらに相続したものであったからです。

 

ファシズムに対する自由陣営からの抵抗、そしてそれが脆く崩れ去る瞬間、移民や貧民への差別。

 

しかしながら、そこに一筋の光明が差したこともあったし、「短い間ではあったが、確かに我々にも幸福な時代があった」。フスタファ老人の独白は、希望なのかあるいは絶望なのか。


『グランド・ブダペスト・ホテル』とツヴァイク - 映画評論家町山智浩アメリカ日記

 

 

 

映画『グランド・ブダペスト・ホテル』オフィシャルサイト