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1年間に読んだ本/見た映画・演劇の合計が108になるといいなあ、という日記。

薄氷の殺人

2014年・第64回ベルリン国際映画祭で最高賞の金熊賞と男優賞をダブル受賞したクライムサスペンス。中国北部の地方都市を舞台に、元刑事の男が未解決の猟奇殺人事件の真相に迫っていく姿をスリリングかつリアルに描いた。「こころの湯」の脚本などでも知られ、これが長編監督3作目のディアオ・イーナンがメガホンをとった。1999年、中国の華北地方。ひとりの男の切断された死体が、6つの都市にまたがる15カ所の石炭工場で次々と発見されるという事件が発生。刑事のジャンが捜査を担当するが、容疑者の兄弟が逮捕時に抵抗して射殺されてしまい、真相は闇の中に葬られてしまう。それから5年、警察を辞め、しがない警備員として暮らしていたジャンは、警察が5年前と似た手口の事件を追っていると知り、独自に調査を開始。被害者はいずれも若く美しいウーという未亡人と親密な関係にあり、ジャンもまたウーにひかれていくが……。

2014年製作/106分/PG12/中国・香港合作
原題:白日烟火 Black Coal, Thin Ice
配給:ブロードメディア・スタジオ

ラストシーンの花火が印象的。

これがタイトルのもと。ラストシーンが印象的。

2010年ごろの江南地域に駐在していた自分にとって、画面に映るすべてのものが懐かしかった。

どこかでみた女優だと思ったら、『藍色夏恋』の主人公の女の子だった。良い女優だなあ。

テリー・ギリアムのドン・キホーテードン・キホーテを殺した男ー

テリー・ギリアムドン・キホーテ

ドン・キホーテを殺した男ー

 

この映画が完成するまでの紆余曲折については、それこそ、すでに作品化されているドキュメンタリー『ロスト・イン・デ・ラ・マンチャ』や、諸々の解説書ーすでに膨大な数となっているーを参照しなければならない。大変残念ではあるが、今回は、この映画を一見した感想にとどまってしまう。

 

主演のアダム・ドライバーは、『スターウォーズ』最新シリーズでまさに彗星の如く登場し、スコセッシ『沈黙』などを経て、あれよあれよという間に、若手名優のトップに躍り出てしまった。ここでも、その演技力を遺憾なく発揮している。ほとんど彼のキャスティングが、この作品の成功の推進力になったのではないかと思えるほどだ。

 

この映画の美点はいくつもあるが、俳優陣の素晴らしさは特筆しなければならない。ヒロイン・アンジェリカ役のジョアナ・リベイロは、英語版ウィキペディアにも2020年に立項されたばかりの、ほぼ無名に近いポルトガル出身のモデルである。騎士道物語としてのドン・キホーテを突き動かす、大きなモチベーションの一つが「愛する姫を守る」であり(そしてそれは現代の目から見ても、また、当時それが書かれた文脈をみても滑稽さの作用を伴うわけだが)、テリー・ギリアム版においてもそれは大きな中心主題として物語を貫いている。当然、俳優にはそれなりの説得力が求められるわけだが、彼女のルックスや、ややたどたどしい英語、居住まい、どれも素晴らしいの一言である。

 

アダム・ドライバー演じるトビーが、学生時代、スペインの田舎で一本の自主制作映画を撮影したことから、その村に映画の狂気が入り込んでしまう。物語が人を狂わせる、という構図は、まさに原作のドン・キホーテそのものだ。物語は人から人へ伝播し、そして、次々と人を狂気へと追い込んでいく。

 

物語のクライマックス、砂漠の中の古城で、トビーは誤って、というか、ほとんど事故により、ドン・キホーテ(と自称している靴職人のハビエル)をバルコンから突き落としてしまう。これによりドン・キホーテ(ハビエル)は落命するが、その死の直前、彼のドン・キホーテたる由縁であるところの、トビーが学生時代に書いた脚本をトビーに手渡す。これを受け取ったトビーは、映画の最後に、、、というのが物語の肝である。

 

基本的には幻想的な映画であり、もちろんそれはテリー・ギリアム監督の作家性に他ならないのであるが、一見して難解であり、観後感として独特の余韻がある。本作は単独で存在するわけではなく、背後に多くの物語を背負い込んでいる。それらを含めて本作であるし、また、今後作られる物語はすべて本作であるといってよい。あらゆる物語は、その物語以前の、そして、その物語以降の物語である。本作はそのことにあらためて気づかせてくれる。

『サイゴン・クチュール』

クリスマスの夜、因業実業家のスクルージは、三人の精霊に出会って「過去」「現在」「未来」の実相を目の当たりにし、改心して健全な生き方を取り戻すーー使い古された物語の定型かもしれないが、主人公の成長譚としてはやはり効果的であると思った。『サイゴン・クチュール』は、現代ベトナム版の「クリスマスキャロル」である。

 

序盤の主人公ニュイの「イヤな奴」「わがまま娘」ぶりはやや過剰な描写がつるべ打ちのように繰り出され、次第に飽きてくる。のみならず、彼女に内在する成長のタネのようなものもなかなか提示されないのが辛い。結局、彼女が成功したのは名家の娘に生まれたから、ということになってしまう。そうではなく、ここ一番での負けん気の強さ、現状を打開しようともがくことのできる力、周囲のものがなぜか力を貸してしまう人間的な魅力など、人物造形の伏線が前半部にも欲しかった。

 

とはいえ、後半の成長ぶりには引き込まれた(小島瑠璃子河北麻友子にしかみえなくなってくる!)。

 

「未来の精霊」が、自らもまた、過去の亡霊と対峙することによって、アルコール依存症から脱却して成長の一歩を踏み出す姿が、「クリスマスキャロル」式の物語に新しいアイディアを加えたと思う。

やや紋切型ののオカマキャラは出てくるものの、ストーリーが恋愛要素に引っ張られることもなく、シンプルにファッション「スポ根」的にまとまっているのも非常に現代的で心地のいい部分のように思った。

 

前回みた『COLUMBUS』では、韓国系の青年が、親の看取りに際して振る舞わなければならない、アジア的な所作について嘆き、また、アメリカで育った自分と故郷との常識のギャップに喘いでいた(そして、その本質をアメリカ人少女理解ができない、という部分も苦々しい)。

 

一方で、ベトナム製作のこの映画では、そのような宗教観については、ほとんど問題視されない。「伝統に反発する娘」でさえ、何か問題がおきればそこで祖霊と対話し、突然のタイムスリップの際に母親の居室の次に確認をしにいくのも仏間だったりする。また、「長子こそが正統後継者」という価値観については、登場人物のうち誰一人として疑義をさしはさまないのである。政治家など見ても、東アジアには世襲が多い。これが現実というものなのだろう。

 

2017年にタイムスリップしてみれば、街行くひとびとは、ほとんどアオザイなど着ていない。

 

1969年では、洋装が先進性の象徴のようであったのに、いまでは安価な服はほとんどが洋装であり、アオザイは、高級店でのみ取り扱われるものとして、日常の用を失ってしまっている。

 

主人公の跳ね返りがむしろ社会常識となってしまっている以上、今度は反対に、伝統の擁護者にならなければならないというダブルバインドの状況に追い込まれてしまうのだ。しかしながら、自分には当然備わっていると思っていた「正統後継者」という立場は、むしろ、この社会では通用しない。なぜならば、彼女は伝統を軽んじ、学んでこなかったからである。

 

苦境に追い込まれ、初めて彼女は、自らの出自に、文字通り「身をもって」向かい合わなければならなくなる。そこに成長の突破口があるのだが、そこにも「出自」を理由として救いの手が差し伸べられるあたりはやや甘さも感じられた。しかしながら、「未来の精霊」である、零落した自分とバディ関係を結ぶことによって成長していく様は、清々しく、そして、感動も呼んだ。

 

母親役のゴ・タイン・バンの美しさには息を呑むばかりで、物語の進行上のノイズにさえなっていた。

 

エンドロールの後にくる「20代目」のシーンは蛇足だったが、それもまた、本作のチャームポイントなのかもしれない。

『COLUMBUS』

インディアナ州コロンバスを舞台に、その街の近代建築を通じて葛藤し、一方は可能性ゆえ街を出、一方は過去と向き合うべく街に残る。

 

寡聞にして知らなかったが、コロンバスはミッドセンチュリー・アメリカの近代建築の一大拠点となっていて、それが大きな観光資源となっていることがこの映画の前提となっている。

一方でこの街は、五大湖近くの自然豊かな環境にありながら、主要な産業は工業であり、産業の空洞化、ヒスパニック系移民の増加、相対的な白人の貧困化、そしてドラッグの蔓延など、現代アメリカに典型的な問題を抱えていることが場面のあちこちに盛り込まれ、伏線となっている。

 

批評は、まず、映画に漲る画面構成への並々ならぬ意欲を、監督の小津安二郎への傾倒から読み解こうとする。ロングショットの建築は、必ず正対のシンメトリー、ないしは斜め45度からの構図に限られる。屋内のショットは、廊下側から向こうの部屋で起きていることを見つめる、やはりシンメトリーのショットが印象的に使用されている。カメラは必ず固定され、手持ちカメラがブレながら人物を追っていくような「臨場感」を狙ったものは一つもない。まさに建築物のように、堅固に構成された画面。しかし、登場人物からは、彼/彼女がどういう人生を生きてきて、何に苦悩し、また、何に喜びを感じてきたのかが、ありありと伝わってくる。固定された構図でも、生き生きとした人間の活写は可能なのである。

 

それを可能にしているのが主演のヘイリー・ルー・リチャードソンであり、画面構成上の工夫や「近代建築」という主題設定以上に、この映画を魅力的にしている。その顔、その体型、その衣装、すべて実感に満ちている。彼女の演技のリアルさ、「現代アメリカ感」抜きには、ストーリーは成立しえないだろうと思えるほどの好演である。

 

映画とは、テーマや構図も重要としても、やはり「俳優」なのである。小津における原節子の役割をまさに彼女が担っている。

 

その他、建築学の教授とその息子(インテリのエリート)ー主人公と対照されるーが韓国系、経済的に恵まれない主人公が乗る「ポンコツ」車がホンダ車という対比にも、今のアメリカのリアルを感じた。監督が小津安二郎の研究から出発したという事情を考えれば、実はこれは、今の韓国映画と日本映画の立ち位置の暗喩なのかもしれない。

『ロング デイズ ジャーニー この夜の涯てへ』

2000年、父と友人の死をきっかけに、中国貴州省の片田舎「凱里」に戻ってきた男と、友人の死のきっかけとなったマフィアの情婦の二人の物語を中心に、あらゆる場面、あらゆる舞台、あらゆる装置が伏線となり、物語がツイストしていく。ラスト60分、3Dかつワンカットの幻想的なシーンが連続していく。

 

個人的な関心から注目したのは、2000年という近過去に設定された背景で、これが妙にリアルなのだ。田舎の家の、粗く塗った漆喰壁、赤茶色い土埃の染み付いた自動車、煮しめたような色の労働者のシャツ、やたらと赤い、丈が短くくせに襟元にはフェイクファーのついた女もののダウンジャケット、、、すべてが懐かしい。夏に食べる柚子、スイカ、蜂蜜を溶かした白湯、、、画面から匂いが立ってくるようでもある。これもすべて、邯鄲夢なのかもしれない。

 

強盗団が襲った家にあったという「緑の本」が物語の推進力となる。この本に書かれてある呪文が、全てのものを廻していく。「未曾有の映画体験」というような惹句がつく種の映画であるが、自分にとっては『バードマン』の東洋的な再解釈のようにも思えた。バードマンの想像的な飛翔は、この映画ではロープウェイや卓球のラケットによって達成される。ラストの、物語の行く末を暗示しない、オープンな終わりかたも同様である。(2D版しか見ていないのでこのような感想になるのかもしれない。3Dで見れば、また違った印象を受ける可能性もある。)このことだけではなく、物語としても、複数回見なければわかりえぬ細部がたくさんあるのだと思う。

 

画面の中に映っているもののすべてに意味があるかのようにすべてが描写される。気をぬくことができないのに、一瞬で場面が切り替わり、人物と人物が入れ替わり、気がつくと最重要と思えていた人物はいなくなっている。確定的な物語はなく、ただ、世界は広いのに、強烈な閉塞感がある。長い坑道の出口にさえ、希望がない。これが中国の最新のリアルなのかもしれない、と思った。

 

映画館の闇に乗じて、背後からサイレンサー付きの銃で対手を狙う描写は新鮮、かつ、とても気持ちが悪かった。地下のカビくさい、内装は妙にゴージャスな地方都市のミニシアター、客は自分とほかにもう一人、という空気と一緒に、これは忘れえぬ映画体験となった。

『パリの恋人たち』

苦甘のフレンチ・コント。

と、数語によってこの映画の説明は終わる、小さな文芸作品である。原題は ”L’homme Fidele”、すなわち「忠実な男」。

 

見所はリリー・ローズ・デップの猫のような姿態と、主演マリアンヌ役のレティシア・カスタの異様なまでに美しいデコルテと背中の描写である。それ以外は、とくになし。

 

おそらく、フランス文化のなかでは、このような小さな物語ーコントーは、日常的に制作され、消費されているのだろうと思う。そして、このような掌編に出演することで、役者たちあるいはスタッフ陣も、キャリアを積んでいくのかもしれない。

比較してはいけないのかもしれないが、否、当然比較はされるべきなのだろうが、ゴダールやロジエのような闊達さ、奔放さ、美しさの片鱗が見たかった。