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1年間に読んだ本/見た映画・演劇の合計が108になるといいなあ、という日記。

『COLUMBUS』

インディアナ州コロンバスを舞台に、その街の近代建築を通じて葛藤し、一方は可能性ゆえ街を出、一方は過去と向き合うべく街に残る。

 

寡聞にして知らなかったが、コロンバスはミッドセンチュリー・アメリカの近代建築の一大拠点となっていて、それが大きな観光資源となっていることがこの映画の前提となっている。

一方でこの街は、五大湖近くの自然豊かな環境にありながら、主要な産業は工業であり、産業の空洞化、ヒスパニック系移民の増加、相対的な白人の貧困化、そしてドラッグの蔓延など、現代アメリカに典型的な問題を抱えていることが場面のあちこちに盛り込まれ、伏線となっている。

 

批評は、まず、映画に漲る画面構成への並々ならぬ意欲を、監督の小津安二郎への傾倒から読み解こうとする。ロングショットの建築は、必ず正対のシンメトリー、ないしは斜め45度からの構図に限られる。屋内のショットは、廊下側から向こうの部屋で起きていることを見つめる、やはりシンメトリーのショットが印象的に使用されている。カメラは必ず固定され、手持ちカメラがブレながら人物を追っていくような「臨場感」を狙ったものは一つもない。まさに建築物のように、堅固に構成された画面。しかし、登場人物からは、彼/彼女がどういう人生を生きてきて、何に苦悩し、また、何に喜びを感じてきたのかが、ありありと伝わってくる。固定された構図でも、生き生きとした人間の活写は可能なのである。

 

それを可能にしているのが主演のヘイリー・ルー・リチャードソンであり、画面構成上の工夫や「近代建築」という主題設定以上に、この映画を魅力的にしている。その顔、その体型、その衣装、すべて実感に満ちている。彼女の演技のリアルさ、「現代アメリカ感」抜きには、ストーリーは成立しえないだろうと思えるほどの好演である。

 

映画とは、テーマや構図も重要としても、やはり「俳優」なのである。小津における原節子の役割をまさに彼女が担っている。

 

その他、建築学の教授とその息子(インテリのエリート)ー主人公と対照されるーが韓国系、経済的に恵まれない主人公が乗る「ポンコツ」車がホンダ車という対比にも、今のアメリカのリアルを感じた。監督が小津安二郎の研究から出発したという事情を考えれば、実はこれは、今の韓国映画と日本映画の立ち位置の暗喩なのかもしれない。